からふる。

休学・東京留学した地方女子大生の本音

大学5年間を振り返って

 

ちょうど一年前、大学4年生で一通り就職活動を終え、
これから半年で大学生活が終わるというタイミングで大学を休学した。
私の大学生活は4つの教員免許を取得しながらもやってみたいことにとにかく手を出していて、
就活をする時になって初めて自分は何をしたいのだろうと考え、
結局半年間だけの就職活動では答えが分からなかった。
それから私は東京に趣き、ITベンチャーインターンに飛び込む。
こんな自分の激動の大学生活を改めて振り返ってみようと思う。

入学前

大学を迎える前に自分には三つの試練があった。
一つは学生の間没頭していた陸上の部活を引退してからの燃え尽き症候群
二つ目は誤診で虫垂炎(盲腸)をこじらせ、大腸がお腹の中で破裂し、緊急手術をして迎えた過去最低点をマークしたセンター試験
(悪化した原因は医者の誤診と自分の我慢強さでなかなか病院に行かなかったからだが)
三つ目は親からの自分の将来への期待だった。

もともと体を動かすことが好きで陸上人生だった自分は
憧れだったインストラクターや理学療法師を諦め教員という道を目指すことに。
しかも最もやりたかった保健体育ではなく変えが効く英語という科目での挑戦だった。
ただ、手術で命の終わりを自身が体験したことで「生きなければ」、「後悔しないように生きたい」という思いはかなり強くなった。
それでも将来への不安と経済面から自分の興味のあった道への挑戦ではなく教員という道が"保証"されている地方の国立大学への入学を決める。

1年目(2013年4月〜2014年3月)

大学は同期が九州でトップの大学に続々と入学していたことに焦りを感じ、授業もアルバイトもサークルも教育ボランティアもとにかく色々やってみた。
1ヶ月ほど経つと英語科の同期のモチベーションとの差に悩み、勉強もつまらなく感じていたことから後悔のどん底。毎日なんのために大学に来たのかと悲しみの涙が込み上げていた。その後、親とのバトルを経て、車校を終えた10月から仮面浪人をするため
ここから本格的にセンター試験の勉強も開始。
ちょうど大学の図書館が工事だったため市内の自転車で20分くらいの市立図書館に通って心が孤独な毎日だった。
大学では小学校系や体育系のメンバーと同じ授業を選択していたため他学科と遊ぶことが多くなり、得意なことをするうち自分を取り戻していく。
進路について親と再度激突。モチベーションが低下し、こそこそ受験したもののふがいない結果。山口に残って挽回することを決める。

2年目(2014年4月〜2015年3月)

そこからの自分は積極的に行動することが多くなり、
英語科にいるのになかなか英語力ができない劣等感から、経済学部の教授の主催する講座を受講したり、体育の授業を受講していた。(その頃は口では大学の授業の批判ばかりしていた。)フィリピン留学を知り、留学を決意する。

フィリピン留学を決めた理由は3つあって、
1つ目は留学費が欧米や欧州に比べて断然やすいこと
2つ目は1on1の授業が多く、スパルタ校とも言われており費用対効果が高いこと
3つ目は単純に東南アジアはいつか行ってみたかったからである。

TOIECの点数というよりコミュニケーションとしての英語を身につけるためと挑戦していく精神を身につける自分にとっての挑戦の留学だった。

旅館のアルバイトを朝晩とにかく入って資金を集めた上で親にプレゼン。
その覚悟で親も安心したのか留学を許してくれ、
8月中旬から9月中旬の1ヶ月フィリピンのバギオに留学してきた。
経済学部ばかりの山大生30人と韓国人のルームメイトとの刺激的な1ヶ月を過ごし、
劇的に度胸や積極性がついた。
ここから海外の楽しさや外の世界への興味が沸き起こり、行動力が爆発していく。
友人と中国地方の僻地まで電車旅をしたり、
カンボジアの子どもたちに運動会を届ける教育支援プロジェクトへの参加、
旅館のアルバイトの他にブライダルの派遣への登録してバイトに明け暮れ、
授業も上限を外して34単位取り、とにかく時間の有る限り活動していた。

3年目(2015年4月〜2016年3月)

初めてTABIPPOの主催する旅大学に参加し旅への興味がグッと強まる。
(この頃には自信も取り戻し、教育学部の中でもかなり交友関係が広い方で
経済学部の観光系の友達が多かった。)
留学生支援室での留学手続きや留学生支援のアルバイトも始め、
自分にとって初めての教育実習が小学校で行われた。
(自転車で行けてホワイトと聞いていた小学校への実習を戦略的に獲得し、初めての実習はかなり楽しかった。)
小学生と全力で遊び、再び教育や体を動かすことへの興味が蘇る。
進路をぼんやり考えていた頃で、一度一般企業もみてみようという思いから夏休みはインターンに行くと決めていた。
インターンと留学時の友人に会う目的で東京・名古屋・京都間を夜行バスで格安旅。
秋には山口で参加した学生版夢アワードのプチイベントで出会った福岡の起業家の影響で山口の学生で学生団体(企業インターン支部的なもの)を立ち上げることに。
授業と全6回のイベントの企画や福岡で行われる学生イベントへの参加に明け暮れる。
一方で友人の陸上サークルの立ち上げに関わり、没頭する。
1月に行われたキャリアイベント夢トークで出会った学生たちの影響で
東京での就職活動を決意し、3月から動き始める。
Oneness Asia Leaders Summitという日本人学生と留学生が各分野の日本のリーダーたちとディスカッションするサミットに参加したことも大きかった。
学生時代で最も密度の濃い半年を過ごす。

4年目前半(2016年4月〜2016年9月)

就活を始めるも見ていたのは専門科目と近い教育・人材業界のみ。
企業分析も曖昧なままに、自己PRもままならなかった自分は6月まで一社も内定をもらえずどん底に。一瞬引きこもる。
一方で大学のCOC+事業部(地元企業への就職を支援するため企業とのプロジェクトや採用支援を行なっている大学の機関)の方と話す機会が多くなった頃で、
大学でベンチャーを立ち上げないかという話をもらう。
女性起業家の講座や地域の活性化の会談に学生ながら参加させてもらう。
自分のアイデアからすぐに様々な社会人に繋いでくれるので爽快だったが、
一方であまりイケてる人ではなかったし、うまく言いくるめられて自分のやりたい方向性とだんだんずれて不安になっていく。
社会について何も知らないことが不安を助長する。
ちょうどその頃山口にカタリバやエンカレッジが入ってくるので手伝って欲しいと声をかけられどっちつかずになり悩む。
この時からまた自分がイベントをしたいという思いが芽生え始め、
8月に合宿をすることを決意し動き始める。
その頃、細々と再開していた就職活動が実を結び、7月にご縁で日本人が経営するタイの人材会社から現地採用の内定をもらい、その終わりには大手損害保険会社の内定をもらい就活を終える。
合宿は学生2人でほとんど運営し、初めてでドタバタすることばかりだったが参加者からの反響もよく無事終了する。
その影響で前々から行きたかったタイへのバックパックを急遽決め、2週間ほどタイに滞在し、ダイビングライセンスを取得してから放浪の旅。
タイの旅では自分の人生にもっとわがままでいいんじゃない?という旅人が多かった。
一方でまだまだ親の顔をうかがってしまう自分の弱さにも気づいた。
自分の人生に責任を持てるようになりたいと思い、
将来を考えるチャレンジとして親に大反対されながら大学を休学。
ITベンチャーでのインターンに飛び込む。
親や友達など自分を全く知らないどこかに行きたかった。そして弱い自分を変えたかった。

4年目後半(2016年10月〜2017年3月)

親には建前として最近はインターンという経験を買った方が良い企業に就職できると言っていた。
本音としては、ベンチャーとかITといった世の中を変えて行く生き生きした人たちへの強烈な憧れがあって、そんな人たちの中でなら弱かった自分のマインドを変えれると思っていた。親の近くだと心まで縛られてしまうので、もっと自由でありたかった。
何もかも初めての経験で一人で全部させられたのでもがきながらも日々孤独と自分への劣等感と少ない収入の中戦っていた。
ビジネスとは?、マーケティングや経営とは?、なぜ?課題は?・・・
といったビジネスの「いろは」と最先端の領域 「シェアリングエコノミー」の渦中で、
「自然に関わる仕事」を「好きなことで生きている人たち」に触れ合いながらできたことは楽しかったが、その時は成果が出ないことばかりに目が向いて辛かった。
周りの人の圧倒的な個性への劣等感と自分を犠牲にすることが増えた。(自分は幸せになっていないという価値観に縛られていた)
それから上司の勧めで本を徹底的に読むようになり、
ある社員さんの言葉で自己肯定感の低さや他責に気づく。
変わるために無我夢中だったその頃、自分の限界や意味づけする力がかなり引き上げられた。(自分に余裕がなかったので恋愛沙汰はほとんど発展することがなかった。笑)
一方で100人の社会人に会うマイプロジェクトとしてMatcherを使って社会人30人、
知り合いの紹介で20人、イベントや就活の選考で50人ほどの社会人と会う。
何がイケてる自己PRで何を社会人が求めているかが分かった。
オリジナリティのあるエピソードとビジネス用語や基本的なマナー(社会人との共通言語のようなもの)、相手に合わせて聞く力は社会で生きていくために必須事項だと感じた。
その中で自分が相手に与える印象も分かり、
意図的に声を張ったり、克服系のエピソードを多めに語ったりして自分ならではの就活ノウハウを確立していった。失敗することの方が圧倒的に多い初めての経験だった。

5目前半(2017年4月〜2017年9月)

休学期間も終わりに近づく。

満を持して2月から行った就活。思ったよりも苦戦しながら
移り住んだシェアハウスで社会人に日々ブラッシュアップしてもらう生活を送る。
リスティング広告を回したりデザインしたりするインターンを行うもモチベーションは低め。(おそらくデジタルマーケティングのスキルを極めることがゴールになっていたからだ。)
自分のモチベーションはそこではなかった。どちらかと言えば人との繋がりや人のためになることに頑張れるタイプだったので、自分の本当に好きなことではなかったのかもしれない。成果もそんなに出ている訳ではなかったからかも。
最終的にデジタルマーケ系で3社内定を獲得し、
迷いながらも社会人の方に相談しながら、今のところ自分のキャリアにとって期待があり、一番自分の素な部分を認めてくれた一社に絞る。
この中で限られた期間で選択肢を検討し、一旦決めることの大切さ修正してくことの重要性を学んだ。何度でもやり直せるのだ。


その後、残りの東京生活何かできないかと参加したイベントで(運命の)出会いがあり、
小学生のサマースクールに興味からそこの運営会社の人に頼んで
次の日には面談させてもらい社宅を借りながらインターンをすることが決定した。
経済格差による教育格差の打破ができるビジネスモデルに感激し、入社まで考えたほどである。マーケティングというよりは現場を多く経験していったり、
六本木という日本でも指折りの高所得者の子どもや有名私立の学生を目の当たりにし、
ちょうど読んでいたファイナンスや投資の本の影響もあって教育経済学への興味が湧く。
また、自分は小さい頃から好きな体を動かしたり、絵を描いたりすることが好きで、子供と遊ぶうち好きなことをすることが自分を取り戻すということを実感した。自分にとって新しい挑戦や人との関わりであることがエネルギーになるということが明確になったので、今を楽しめる選択を意識的にできるようになった。できないことができるようになるプロセスが楽しいし、今知らないことを知っていくことの喜びを認識できた。
その会社では度胸があるところと適応力から来る安定感をかなり評価された。
しかしながらベンチャーであったので今の自分の力でできることでは必要とされなかった。デジタルマーケはその会社を助けられると感じたことも今の会社を決断する一因にもなった。
その夏、友人と作った教育とエンターテイメントを行うチームで訪れた軽井沢では障害を持った子供達にとって芸術が大きな効果を与える可能性を肌で感じ、生涯教育への関心や心の豊かさへの興味が湧く。(多分今でいう学習学やウエルネスと行った分野だ)
このあたりからデンマークのフォレスホイスコーレという教育機関や大人の教育といったことに興味が湧いた。しかし、日本では民間企業内の教育でしか大人を再び教育する機会はないことに気づく。
こんな感じで自分の最後の夏休みは東京で幕を閉じた。
ちょっとの後悔は時間とお金があるうちにヨーロッパに行くつもりだった夏休みを東京で働くことに費やしすぎたことだ。

現在

北九州の実家に帰ってきて日々を振り返っていて思ったのは、
自分の大学生活は高校時代に頑張りきれなかった分を取り戻すように
全力で走り抜けていたのかもしれない。あとはたくさんの選択肢を知るために。
そして自分を知り、許し、さらに好きになっていくために。
今では自分の中での不満も満たされて、幸せだと思う瞬間も増えてきた。
これからもっと人に与えていけることを増やしていけたらと思うが、
それは自分が自分のために挑戦し続けているうちは両立が難しいことなのも実感した。


教育に興味を持ったのも環境への他責の念が強かったのもあるし、
自己肯定感の弱さから自分のやりたいことよりも人の求めるものを優先していたところがあったかもしれない。
今となっては何をやりたいのかはなんとなく出てきたけれどまだまだ言語化できていないし、それが自分の幸せとリンクしていさえすればまた変わってもいいと思っている。
夢を持たなければいけないということ自体が日本の教育や一括採用がもたらした脅迫観念なのだろう。

主催していた学生イベントが山口では響かなくて悩んだこともあったが、
生き生きとしている人がいる割合は山口も東京も変わらない気がする。
地方には変わらないとう呪いのようなものがかかっているのかもしれないがそういうのが当たり前の"環境"だったからといえばそうかもしれない。
(アメリカでも今働いているのが幸せだと答えるのは全体の20%しかいないらしい。)
でもまあ、母数が多い都会では出会いやすいだけで、東京だからすごいことなど本当に限られているのだと思った。


自分は残りの大学生活では入学当初頑張った自分のために
4つの教員免許の取得に必要な残り3つの授業と、まるまる残っている卒論に取り組む。
英語教育に興味がない今何をテーマにするか迷うところではあるが、
せっかくもらった内定を無駄にしないようにしっかりと責任を果たして行こうと思う。

※留学経験がキャリアに与える影響とキャリア形成に有効な留学計画についての研究をすることにした10/06

最後に

今では4つの教員免許の取得も大手の内定を蹴って休学したことも、
住む家がない状態で上京し、たくさんの会社で社会経験を積んだことも、
全て今の自分を作る糧となっている。
一番頑張ったことは何か聞かれたら全部と言いたいところでは
あるがそのどれもに自分らしさがあるような感覚があり、無駄だと思ったことはない。
就活の時は伝えたい自分の印象や相手が共感しやすいエピソードにすればいいのだ。
「自分の得意なことで人に貢献が最大の幸福である」、しかし「自分の大切なものを大切にする」生き方が本当の幸せになるのかなと思う。

教育は自立の支援であり、人を幸せにするが全てではない。それが自分が大学に通ってでた「教育とは何か」の答えだった。

育てられた親からもらった考えは"自分の当たり前"になりがちで変えにくいが、多くの人との出会いで自分をなりたい自分に変化させていくことはできる。
「自ら環境を作り出し、自らを変える」ことが理想の自分になるのに大切なのだろう。(リクルートのこのバリューは本質であると思う。)
この大学5年間は専門性を身につけることはあまりできなかったが、多くの経験を積み、自分の人間性を磨き、生涯自分を支える心の剣となってくれそうだ。

習ってきたスポーツ科学や体育の知識は健康的な日々を送るために欠かせないだろうし、浴びるように触れてきた英語は世界に出ていく情報を得たり、発信するときに間違いなくこれからを生き抜く力になる。異文化理解というこれからに必要な視点も他者理解をする上で非常に役立った。

教育というものを学んだのは、学習者として自分をどう高めるかや人の可能性をいかに引き出すかというファシリテーターとしての力を養えた。長期インターンでビジネスを学んだ経験は社会の仕組みを理解し、世の中の動き方や壁を越えて人を繋ぐプロデュース力を高めてくれた。
まだ専門性は決まっていないが、100年人生と言われる中ではこれぐらい分野を広げておいてよかった。これからじっくり決めていこうと思う。

辛くなった時はまたこの記事を読み返してみると頑張れそうな気がする。

 

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さてさて残りの半年何をしようかな。

十五夜の見える羽田から山口に帰る朝の便を待つ空港のカフェスペースにて。